自叙伝 30歳で海原へ

自叙伝 スタバ太郎

スタバ太郎の過去をほじくり返したとしても碌な内容は出てこないですけども、今かなり悩みの時期を迎えていまして、方向を間違わないために、納得したこれからの人生を歩むために書くことにしました。

私が22歳から勤め始めた会社はそれから7年半。とてもキャリアを積めたというようなサラリーマン人生ではなかった。苦しい日々の連続で最後はパニック症候群にまで陥るほど酷い状況まで追い込んでしまい、ようやくそのピリオドを打ったのを昨日のように思い出す。その問いは自分ではなく、一人の医師からだった。1999年の年末に最終電車で帰宅する時、電車の中で呼吸困難に陥り、到着した自分の町の駅でそのまま救急車で運ばれた。

救急車に乗るのは2度目の経験。7歳の時、母親が離婚し、私たち兄弟は母親と共に親戚の家で一時期過ごした。その時、私は従兄と一緒に外で遊んでいる時にオートバイに思い切り引かれ、病院に運ばれたが、たんこぶ1つ作っただけで大きな怪我にはいたらなかった。そんなことを思い出しながら、当直担当の病院に運ばれた。特に何をされた分けでもなく、すでにパニック症候群のサインも消えてしまい、専門医でもないので別の病院に改めて行ってほしいと言われた。後日行った病院の内科医(中国人の女性だった)に一言言われた。

「貴方は、今の仕事で悩んでいるのは分かります。仕事辞めますか?それとも死にたいですか?」そういって、お守り替わりにステロイド剤を渡されて帰宅した。その時、心臓の上にホルターを付けて24時間心臓を監視する羽目になった。

ではどうしてこんなことになってしまったのか。

私は大きく悩んでいた。29歳。。。サラリーマンとしては本当に面白い時期に差し掛かっている時期。仕事も7年やってきたし、順調でもなかったけど、学卒者と同じ時期に昇進試験の時期をいつにするか上司達が話をしている時期だった。2000名程度の企業、しかも年功序列の激しい企業だった。年齢給もしっかり反映するような会社だった。

社内のプレゼンでは毎年上位に食い込むチームを率いていたので、社長がいつも顔見に来てくれてた。

でも私は悩んでいた。

それは原発を主にした企業だったから。原発の下請け。正に今の東電が抱えるあの場所。1Fが最も大きな事業の柱だった。私は原発ではない部署にいたけれども、下請け体質には何ら変わらなかった。

その体質が自分にまったく合わなかったのだ。

実は1Fの1号機タービン建屋でも仕事をしたことがある。まったく違う仕事なのに通訳が足りないという理由でお門違いの原発にいきなり呼ばれて、何もしなくていいからただ行けば良いと1週間真夜中の業務をしたことがあった。当時の事業所長に何をしたら良いか食い下がったが、行けば良いの一点張りだった。

実際は暑い環境で汗が絶え間なく出て、通訳の必要などほとんどなかった。しかし、発注者の外人からは、原発を知る専門家に来てほしかったと嫌みを言われた。でもそこでお金が発生していたのだから驚く。そこで原発の下請けの体質を垣間見てしまったように思う。でも実際はクリーニングや除染作業などが大きなウェイトを占めていたのだから、その通訳業務は異例の仕事だったと思うし、どういう位置づけだったかも知るよしもなかった。

本業の仕事も下請け体質丸出しだった。

とにかく責任の伴わない仕事がほとんど。それがとにかく合わなかったのだ。責任がないのだから、それはぬるま湯の如く緊張感のない社員が多かったのは言うに及ばす。退職を決意する時期は本社配属だったが、天下りの経営者層や部長・課長連中と毎日顔を合わせる度、ため息つくことが本当に多かった。本業を辞めて、焼き鳥事業をしようだの、各地の名産物を売るアンテナショップをしたらどうかなど、全然違う事業をお酒飲みながら話をする方々がほとんどだった。中にはまともな人もいたけど、そこで私は退職を決意してしまった。

このオジサンのようなサラリーマン人生は歩みたくない。実際、踏みとどまってその当時私が配属されていた事業を引っ張っていくことも一次考えていたのだけど、直属の部長と真っ向から対立してしまい、外国メーカーとの単独会談のレポートも目の前で捨てられるほどだった。3時間2人の外国人と話し合い、かなり感触が良かった。しかし、下請け体質の企業だったためエンジニアではなかった。責任の伴わない緩い仕事しか受けない企業がメーカーの下で直に仕事するほどレベルの高い会社ではなかったのだ。私が辞めてからその部長は私のレポートに従った事業展開をしたようだけど、事業拡大には至らなかった経緯は聞いていた。所詮・・・ね。

退職してからが実は大変だった。

私はスキルもほとんどなく、語学もてきとう、自分がサラリーマンとして別の会社に移るような人脈もなかったし、文字通り裸一貫になっていた。あったのは、セルシオを現金で買える程度のお金しかなかった。

辞める半年前にはアメリカに渡ることは決めていた。この続きは後ほど書こうかな。

何が言いたかったのか。正直言うと、もっと早くから退職することは考えていたんです。

でも転職を繰り返すことは不利と思っていたし、
行く先も無かった、
下請け体質の企業が肌に合わないって感じ始めたのは数年経ってからだった。

もっと責任ある仕事したい。でもどうやってそういう会社に移れるのか真剣に考えてなかったんです。そもそもその会社にはコネで入ってしまったんです。正直、軽々しいサラリーマン人生を歩んでしまったな。

でも実際、現場で働いていた時は仕事は楽しかったし、責任こそ伴わなかったけど、上司は私に何度も海外に行く時間を与えてくれたし、何も不自由はなかったんです。でも物足りなかった。

もっと責任ある仕事がしたい。自分の行った行為で処罰受ける位の仕事がしたかったんです。でもそんな力など無かったし、どうしたらそういう世界に行けるのか、、、途方に暮れてました。

でも不思議と今はそういう世界にいます。明日、責任をとって仕事を失うかも知れない。毎日が苦しいと楽しいのハラハラどきどきの世界にいます。30歳でアメリカに渡ったのはある意味、自分を見直すきっかけになったし、自分は何もできない一人の人間でしかないという結露に至ったのは大きな成果だったです。

それを得るために私は半年という時間を割いたけど、それはそれで私の人生には大きな一歩になったのは確かです。

さて、寝ますか。明日も5時起きです。今0:36。5時に起きて後輩指導が待ってます。書類もてんこ盛り。good night。ワインを飲みながらだったので、相変わらず支離滅裂でしたね。

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