Category Archives: 93_徒然なるままに

スケートボーダーEisei Sugimoto

スタバ太郎はEiseiのお母さんKyokoさんの知り合いです。Kyokoさんとはもう10年来のおつきあい。Kyokoさん親子のがんばりは私にとっての励みです。Eiseiがまだ小学校低学年の頃に美味しい天丼を一緒にご馳走になったのを思い出します。今は福井や長野と遠くてなかなか会うこともできないですが、将来もっと大きくなったEiseiに会いたいな。

私も夢や目標の実現のためにがんばってます。一つの目標はようやく実現しようとしてます。くじけずがんばろう。Eiseiのがんばりが私に励ましの喝を入れてくれたようです。

今は夢を持たない人が本当に増えました。私自身は目標や夢ばかり思い描く人なんですが、とても恥ずかしくて周りにはそれを言ったことがほとんどなかったです。でもここ最近、自分は何を目指し、どういう生き方をしたのかを周りに言うようになってきました。これはすごく大事なことだと思ってます。そうすると不思議と周りも理解し、それに賛同してくれる人もぼちぼち出始めたのです。

目標や目指すものといってもあまり大きなものではありません。海外に事務所を持って、そこで世界の仲間と一緒に仕事したい。ハードルはものすごくいっぱいあります。たぶん、そういう姿まで行くまでのステップを100とすると10も行ってないでしょう。今は、海外の人とと知り合い、英語など勉強し、そして当たり前ですが仕事を覚え、会社を良くすることをどんどんしています。そして、世の中のために自分の仕事や自分自身の関わりがどうであるというものをきちんと確立していかねばなりません。しかし全然足りてません。まだまだすべてが中途半端。

でもいきなり海外が出来てきたわけではなかったんです。中学の時からの夢が海外で英語を使って日本と世界を股に掛ける男になると。でもそれには目標設定は何もなく、ただ漠然としていました。でも夢を持ち続けることは良いことだと思ってます。私の夢はかなり現実的な話しですし、途中で諦めるというようなものでもありません。要は自分自身でそれができる人になっているか、あくまでも歯車の一部でそういう仕事をしているかです。前者になるまではまだまだ・・・。後者は3割くらい行ったかな。

でも振り返ってみると徐々にそうなってきたように思います。今になって細かな目標設定、その時にやるべきことを年の始めに書き出し、修正を加えながら徐々に自分をそこに持っていくようにしています。でも実際は、会社のお膳立てがあって、自分自身に何ができるのかと考えればまだまだ全然できてないなと思うことばかり。とても自分一人で開拓してやろうなんてレベルまで行ってないように思います。

そんな中、来年から変わりはじめるなと実感してます。このゾクゾク感はいままで感じたことのないものです。なんといか、しっくりくるような動きをし始めているのを感じます。今は自分から攻められる体制を作ってます。まあ、こっちから語りかけなくとも相手から一緒にやってみたいという風にできたら一番なんですが、自分が誰でどんなことをしているのかをきちんと相手に説明したいなとは思います。最低限、何かの形でこの人は何をしている人であるというアイデンティティはきちんと確立しないといけません。

すこしだけですが、私の老後の姿を書いておきましょう。世界中を旅して回った後に海の直ぐ近くの家に住んで毎日釣りをして大自然中で生きたいと思います。小さな畑で野菜を育てて、世界中にできた仲間と毎日のようにネット電話で今日の収穫を語り合う。花が好きなので、花も育てたいですね。そしてゆっくりと人生を閉じたいなと思ってます。住みたい場所はできたらオレゴン州とかワシントン州がいいですね。日本の東北地方も好きなので、日本ならばその辺もいいなと思います。でもできたら海外生活がいいなと思ってます。言葉や食材も全然不自由しない人になって、細々と生きたいなと思います。

うまくは言えませんが

一言で今の私を表現するならば、また歩き出すために準備しています。

もうすこし踏ん張らないといけないので、年末まで歯を食いしばってがんばります。目標達成まで今一歩です。7つのシステムを完成させます。あと残すところ1ヶ月と24日かな。富士山に例えるならば、実はまだ6合目かも知れません。頂上は遙か彼方。でももう頂上が見える位置にいるのです。もうちょっと。くじけずに最後まで登り切る。私がこの15年間で経験した集大成。それを残していければ私は本望。そして次のステージに向かいます。

私にとってのセカンドステーキかな。小さなステージはいくつもあったので、何とも言えないのですが。残せるだけ残して、次ぎに向かいます。

Let’s go!!! こんな軽いノリではないのですが、気分を変えようと文字だけでも陽気に。。。中身はシンミリ。今は集中するためにソーシャルネットワークからは離れてます。昨日から(笑)

いよいよ日本国内スタバツアーが終焉

先週、スタバ国内を今年中に終わりにすると書いていましたが、なんとそのチャンスが早くも訪れました. 10/8-10/10の2泊3日間の旅です. 当初、ANAの無料チケットでと考えていましたが、思い切って車で行ってしまおうと思います. 今週の半ばにはまた福井から長野に戻ります。そこから青森を目指せば非常に近いです。1日で余裕で走れます。今でも1日1000kmは消化できると思うけど、仕事がいきなり舞い込んでくる可能性を考えると、あまり無茶もできません。

土曜日の朝一番で青森を目指して、当日中に五所川原市に。そして翌日は山形県山形市を目指して、最終日の月曜日はゆっくり長野市まで戻ればいいです。1700kmを3日でと考えれば余裕過ぎる。恐らく、私の車はスタバツアーから帰る頃には走行距離10万キロを達成しているかも。新車から買って10万キロ超えは初めてです。まだまだ行けそうな予感。

次はもう少しゆったりした車がいいですね。

日本国内ツアーを終えると、次はアメリカ49州、世界中のスタバ巡りが待ってます。日本を含めるとすでに36カ国に出店しているスタバです。ものすごいノルマだ♪ でもこのノルマを掲げないと次にはいかないですからね。ちなみに私は遊びの延長でスタバ巡りをするつもりはありません。次のステップはもう決めてます。それに向けてがんばります。

あ、話は前後しますが、スタバの社長は 角田さん、コラーレスさん、岩田さんと3名が歴任してきましたが、現在の関根社長に変わってからも出店拡大路線は踏襲されたようです。もしかするとその中に山陰地方への出店も考えているのか、以下のサイトの情報を読んでみましたが、それを匂わす内容はなかったです。
**************************
引用
http://www.j-cast.com/2011/09/26108167.html?p=1

日本進出15周年のスターバックス 新CEO「郊外や地方はまだ進出余地がある」

   スターバックスが1996年に東京・銀座で国内最初の店舗を開いてから、今年で15年となる。その節目の年、スターバックスコーヒージャパン(SBJ)では関根純氏が新たにCEO(最高経営責任者)に就任した。
   関根氏は今後の方向性のひとつに「イノベーションの挑戦」を掲げる。経営戦略上の具体策はこれから練り上げるというが、商品開発にはすでにその姿勢が表れているようだ。

「今後は店舗開発が重要になるだろう」

   関根氏は2011年9月21日に開かれたCEO就任会見で、15周年にあたる8月2日に国内1号店の店頭に立ったエピソードを明かした。「開店当時から毎年この日に欠かさず来ているというお客様にも会い、改めて皆様のスターバックスに対する愛情、思い入れの大きさを感じた」という。東日本大震災の影響は小さくなかったと打ち明けるが、5月7日には全店での営業を再開、被害を最小限に抑えて、直近となる2011年第1四半期は前年同期比で増収増益を達成したことを報告した。
   国内での出店数は935店舗(9月21日現在)で、今年度は50店を新規出店すると説明。拡張路線に対して「既に飽和状態なのでは」との声が上がっているが、関根氏は都市部での競争激化を認める一方で「郊外や地方はまだ(進出の)余地がある。ドライブスルーやパーキングエリアといった形態での出店が好調」とし、「今後はさらに店舗開発が重要になるだろう」と話した。

   世界各国に事業を広げるスターバックスでも、とりわけ日本でのビジネスは優良で、グローバル市場における日本の貢献度は高いと関根氏は胸を張る。15周年を迎えた点については素直に喜ぶ一方、「人間で15歳といえば、骨も筋肉も未発達の少年。健全な成人になるためには、骨太でしっかりした筋肉をつける必要がある。そのうえで今は大事な時期」と気を引き締める。

   そのうえで関根氏は、今後の事業戦略の方向性として3つを挙げた。1つ目は出店を含めた店舗などリテール事業の可能性を最大化していくこと、2つ目は「現場力」の強化、そして3つ目が「イノベーションへの挑戦」だという。特に「イノベーション」については既に現場で実践が始まっている。
   SBJでは15周年を記念してドリンクを中心に新製品が次々に開発されている。例えば「アップルクランブルラテ」と「アップルクランブルフラペチーノ」は、エスプレッソの商品としては初めてアップルをモチーフにした飲料だと、SBJカテゴリーマネジャーの中島史絵さんは説明する。

   「ラテ」はスターバックスの人気の定番メニューの1つで、15年前に銀座の1号店を訪れた最初の客が注文したのもダブルトールラテだったという。そこに、今まで使ったことのないリンゴという素材を用いたのは、「日本の顧客は、常に新しいものを求める」という特性を踏まえたうえで、「イノベーション」に取り組んだのだと中島さんは話す。「アップルクランブル」という、欧米の一般家庭でつくられる菓子を取り入れたのは、「『手作り』というスターバックスが大切にしている価値観を出しながら、自宅にお客様を招いてもてなす雰囲気を出したかった」(中島さん)そうだ。

アメリカから無事に帰国

アメリカ出張から無事に帰国してます。スタバは結局5回行ったかな。
3店舗も行けました!仕事の先にスタバがあったので、立ち寄れました。
ホテルの近くにもありましたし。

現地では8時間近い大停電も経験しました。700万人に影響が出たそうです。
これでどの地域か簡単に分かってきますねw

今月末でどうやら長野も終わりになるようです。

今年は後半にいろいろと大転換・大ドンデン・大ニュースが目白押しです。
覚悟しておいてください。。。(誰も何も覚悟はせんって。。。)

5つの決断が徐々に明らかになります。

人気ブログランキングへ

Amtrak アムトラック

Amtrak
今回、Amtrakに乗る機会がありました。以前から乗りたいと思っていたのですが、もっぱらカリフォルニアでの移動はレンタカーばかりだったので、なかなか機会がなかったです。念願のアムトラックに乗ることができました。

ロサンゼルスからほど近い街からサンディエゴまで約100kmくらいでしょうか。約2時間掛けてゆっくり走って行きました。

Business class Amtrak
自由席は混んでいるということで、ビジネスクラスを利用。片道で$12で利用できます。ビジネスクラスは空いていて冷房も快適でスナックや飲み物も無料で付いてきます。かなりお得感があります。搭乗員の方もすごく親切でした。少し話したんですが、気さくな良い方でした。いつも一人旅が多いので、そういう時の会話ってすごく記憶に残ります。



Video streaming by Ustream
Amtrakの中で撮影した動画です。Ustreamに載せてます。おわかりの通り、ずっと汽笛が鳴ります。これはすべての踏切で汽笛を鳴らすルールがあるからなんです。一番前の車両にビジネスクラスがあるので、かなり五月蠅かったですけど、慣れてしまえば、心地よい音でした。海が目の前に広がっていて、ゆったりした雰囲気がいかにも西海岸でしたね。またいつか年を取ったら利用して西海岸から東海岸までの旅を企画してみたいものです。

人気ブログランキングへ

シンガポール航空SQ12便

A380-800 Singapore Airlines 12
今回の出張で楽しみにしていたのが、A380-800 に乗れること。完全2階建てというのは経験ないし、目の当たりにするだけでウキウキしてた。ゲートにA380-800 Singapore Airlines 12が近づくと久しぶりに緊張してた。

建物の窓ガラスに映る巨大な機体がゆっくり近づく。

A380-800 Singapore Airlines 12
来た!でかい。今まで見てきた飛行機の比ではない。遠く離れたこの場所からでもそのおおきさが伝わってくる。とにかく高さが全然違うのだ。

A380-800 Singapore Airlines 12
明らかに形は悪いんだけど、この堂々とした機体はやっぱり圧巻。この機体は400人くらいしか乗れないみたいだけど、中には800人乗りもあるみたい。そっちに乗りたかったw

A380-800 Singapore Airlines 12
駐機しているA380-800 Singapore Airlines 12。ずっと見ていた。お陰でアナウンスに気が付かなかったほど。まあ、それは嘘でたびたび、機体の見えるこの場所に来ては様子をみてました。

ちなみにSingapore Airlinesのアメリカ路線は、他社がサーチャージ58,000円を設定する中で30,000円と約半額。しかも一番安い価格帯で利用できるだけでなく、帰国便が変更できるFix-Openチケットでした。これは価格のみならず、非常に優位なサービスです。他社はまったく追従できないと思う。しかもスターアライアンスであれば格安航空券とは言え、100%マイル加算でした。シンガポール航空は一体どんな経営しているんだろうか。最新鋭機材をじゃんじゃん使っているし、経営体質が全然違うんだろうね。

人気ブログランキングへ

今日からアメリカ出張

来週には戻ります。3年振りのアメリカ出張です。
今回はいろいろ課題があるので、かなり緊張してますが、がんばってきます。
行った先にスタバがあるので、毎日飲めるので嬉しいです。
現地で更新できたら書こうと思います。
ちなみに行き先はカリフォルニア州。もう数えてはいないけど、20回以上
行ったと思います。最初に行ったのもカリフォルニア、そして今回もカリフォルニア。
あの青い空が好きみたい。今回も晴れているようです。

いつもならレンタカーで移動するけども、今回はアムトラックに乗ります。
それはそれで楽しみなんだけど、ちょっと怖いなあw

人気ブログランキングへ

マイブーム2つほど

スタバ太郎 ジョイ

ブームってほどではないけど、私は意外とピンクのものが好きなんです。柄にも似合わないですけどね。普段身につけるものはさすがにピンクのものは1つもないけど、部屋に入ればトイレはピンクだらけだし、きっちん類もピンクがいくつかあったりします。そんな時、昨日スーパーに行くとピンクの食器洗剤を見つけてしまった。この柔らかなピンクが堪りませんなあ。思わず購入。

スタバ太郎 pepsi dry

普段炭酸飲料はほとんど飲まないスタバ太郎。多くはオレンジジュースが多いです。そんな時、ふとコンビニで見つけたPepsi Dry。甘くないコーラと書いてある。何をこれに反応したかというと、デザインがiPad2の待ち受け画面と同じ水滴が書かれていたのです。それだけで買いました(爆) でも飲んでみたら意外に美味しい。甘くないの言葉に偽りなく、あっさりしていて飲みやすい。シュガーフリーを謳うコーラ類で美味しいのに出会ったことがない。このコーラはここ最近5回くらい買ってます。私が月に5回なんて普通あり得ません。年に5回も飲むかな?という次元です。

ってこどで、マイブームネタ2本。スタバは相変わらずマイブームを通り越して生活の一部です。

人気ブログランキングへ

自叙伝 直属上司との溝

スタバ太郎 写真

もう18年近く前の話を持ち出すのはどうかと思うけど、今でも忘れることのできない事件が起きた。表面上、非常に優しいその人は物腰が柔らかく良き上司に写っていた。しかし、ある事件をきっかけに私はその直属上司に見切りを付けた。そして、私がその会社組織に疑問を持つきっかけになった。

それはその上司が私も見守る目の前で大きなミスを犯したのだった。実はそのミスはいつ起きてもおかしくない内容。その作業では誰もが緊張する。そしてやらかした。手順を間違え、全員が凍り付いた。そこからその人の人間性が問われるような事件へと発展していく。

なんとサブで一緒にやっていた私の後輩にそのミスを押しつけたのだ。ミーティングで公然とミスを押しつけ、そしてすべて後輩のせいだと言う。普通ならその場で大騒ぎになるだろうけど、何と後輩はそれを仕方ないという思いで受け入れてしまったのだ。本当は怒りが収まらなかったはず。

実はその1年ほどの前にその組織に私は着任していたけど、上司からある言葉を聞いていた。「下請けを雇うのはいざという時のクッションみたいなもんだ」と。「不況など予期せぬ状況でその下請けを切らざるを得ない場合もある。自分たちを守るために」。この構造は今の非正規雇用の実情とマッチはするけども、自分のミスを下請けに押しつけ、自分の身を守るという行動に出て良い筈がない。

私はそのミスを押しつけた上司の行動には賛同できなかっただけではない。人として尊敬もできないし、その組織自体から身を引く覚悟をずっと持ち続けることになった。その1年後にその上司は現場を去った。本社へと栄転していった。のし上がっていく男として私の中に生きている。もう忘れない。

そういう人には絶対になりたくない。

栄転して行った後にその上司に仲人を頼んだ人達もいる。実情を知る知らないにかかわらず、私は残念な思いだけが残った。知らぬが仏なんだろう。

その数ヶ月後に後輩は退職していった。

悔しいという思いもあるだろうけど、その組織体系に疑問を持ち、他への異動を考えていることも聞いていた。ある意味、踏ん切りが付いたのかも知れない。

私は今もその後輩とは仲良くしている。もうその事は言わなくとも2人の中にはその事件は今も忘れぬ過去の1ページとして刻まれているだろうな。あの組織を離れて思うけど、責任のなすりつけでこの世の中が上手く回るのはその時だけ。長い人生で見た時にきっと地獄に堕ちるだろうと思う。私はそういう上司にはならないと決めている。ミスは潔く認めてしまう。それでいいと思っている。何も格好付けることもない。自分を守る術は別に作っておくべきだと思う。

上司の行動は守りとは言わない。裏切りであり、人として失格なだけ。

会社を去るまで私はその上司の下で働いていた。最後は営業所全員が集まる送迎会をしてくれた。心の中ではその上司から離れられることが本当に嬉しかった。組織統制ができず、年上の部下から散々舐められていた。残念な姿を横目に私は退職した。彼との想い出はたくさんある。でもすべて水に流した。その組織を離れた後も執拗に電話が来た。私を利用して仕事を取るというものばかりだった。乗るはずもない。

もうその人からの連絡はない。311で被害を受けたんだろうけど、連絡を取る理由もない。

人気ブログランキングへ

自叙伝 30歳で海原へ

自叙伝 スタバ太郎

スタバ太郎の過去をほじくり返したとしても碌な内容は出てこないですけども、今かなり悩みの時期を迎えていまして、方向を間違わないために、納得したこれからの人生を歩むために書くことにしました。

私が22歳から勤め始めた会社はそれから7年半。とてもキャリアを積めたというようなサラリーマン人生ではなかった。苦しい日々の連続で最後はパニック症候群にまで陥るほど酷い状況まで追い込んでしまい、ようやくそのピリオドを打ったのを昨日のように思い出す。その問いは自分ではなく、一人の医師からだった。1999年の年末に最終電車で帰宅する時、電車の中で呼吸困難に陥り、到着した自分の町の駅でそのまま救急車で運ばれた。

救急車に乗るのは2度目の経験。7歳の時、母親が離婚し、私たち兄弟は母親と共に親戚の家で一時期過ごした。その時、私は従兄と一緒に外で遊んでいる時にオートバイに思い切り引かれ、病院に運ばれたが、たんこぶ1つ作っただけで大きな怪我にはいたらなかった。そんなことを思い出しながら、当直担当の病院に運ばれた。特に何をされた分けでもなく、すでにパニック症候群のサインも消えてしまい、専門医でもないので別の病院に改めて行ってほしいと言われた。後日行った病院の内科医(中国人の女性だった)に一言言われた。

「貴方は、今の仕事で悩んでいるのは分かります。仕事辞めますか?それとも死にたいですか?」そういって、お守り替わりにステロイド剤を渡されて帰宅した。その時、心臓の上にホルターを付けて24時間心臓を監視する羽目になった。

ではどうしてこんなことになってしまったのか。

私は大きく悩んでいた。29歳。。。サラリーマンとしては本当に面白い時期に差し掛かっている時期。仕事も7年やってきたし、順調でもなかったけど、学卒者と同じ時期に昇進試験の時期をいつにするか上司達が話をしている時期だった。2000名程度の企業、しかも年功序列の激しい企業だった。年齢給もしっかり反映するような会社だった。

社内のプレゼンでは毎年上位に食い込むチームを率いていたので、社長がいつも顔見に来てくれてた。

でも私は悩んでいた。

それは原発を主にした企業だったから。原発の下請け。正に今の東電が抱えるあの場所。1Fが最も大きな事業の柱だった。私は原発ではない部署にいたけれども、下請け体質には何ら変わらなかった。

その体質が自分にまったく合わなかったのだ。

実は1Fの1号機タービン建屋でも仕事をしたことがある。まったく違う仕事なのに通訳が足りないという理由でお門違いの原発にいきなり呼ばれて、何もしなくていいからただ行けば良いと1週間真夜中の業務をしたことがあった。当時の事業所長に何をしたら良いか食い下がったが、行けば良いの一点張りだった。

実際は暑い環境で汗が絶え間なく出て、通訳の必要などほとんどなかった。しかし、発注者の外人からは、原発を知る専門家に来てほしかったと嫌みを言われた。でもそこでお金が発生していたのだから驚く。そこで原発の下請けの体質を垣間見てしまったように思う。でも実際はクリーニングや除染作業などが大きなウェイトを占めていたのだから、その通訳業務は異例の仕事だったと思うし、どういう位置づけだったかも知るよしもなかった。

本業の仕事も下請け体質丸出しだった。

とにかく責任の伴わない仕事がほとんど。それがとにかく合わなかったのだ。責任がないのだから、それはぬるま湯の如く緊張感のない社員が多かったのは言うに及ばす。退職を決意する時期は本社配属だったが、天下りの経営者層や部長・課長連中と毎日顔を合わせる度、ため息つくことが本当に多かった。本業を辞めて、焼き鳥事業をしようだの、各地の名産物を売るアンテナショップをしたらどうかなど、全然違う事業をお酒飲みながら話をする方々がほとんどだった。中にはまともな人もいたけど、そこで私は退職を決意してしまった。

このオジサンのようなサラリーマン人生は歩みたくない。実際、踏みとどまってその当時私が配属されていた事業を引っ張っていくことも一次考えていたのだけど、直属の部長と真っ向から対立してしまい、外国メーカーとの単独会談のレポートも目の前で捨てられるほどだった。3時間2人の外国人と話し合い、かなり感触が良かった。しかし、下請け体質の企業だったためエンジニアではなかった。責任の伴わない緩い仕事しか受けない企業がメーカーの下で直に仕事するほどレベルの高い会社ではなかったのだ。私が辞めてからその部長は私のレポートに従った事業展開をしたようだけど、事業拡大には至らなかった経緯は聞いていた。所詮・・・ね。

退職してからが実は大変だった。

私はスキルもほとんどなく、語学もてきとう、自分がサラリーマンとして別の会社に移るような人脈もなかったし、文字通り裸一貫になっていた。あったのは、セルシオを現金で買える程度のお金しかなかった。

辞める半年前にはアメリカに渡ることは決めていた。この続きは後ほど書こうかな。

何が言いたかったのか。正直言うと、もっと早くから退職することは考えていたんです。

でも転職を繰り返すことは不利と思っていたし、
行く先も無かった、
下請け体質の企業が肌に合わないって感じ始めたのは数年経ってからだった。

もっと責任ある仕事したい。でもどうやってそういう会社に移れるのか真剣に考えてなかったんです。そもそもその会社にはコネで入ってしまったんです。正直、軽々しいサラリーマン人生を歩んでしまったな。

でも実際、現場で働いていた時は仕事は楽しかったし、責任こそ伴わなかったけど、上司は私に何度も海外に行く時間を与えてくれたし、何も不自由はなかったんです。でも物足りなかった。

もっと責任ある仕事がしたい。自分の行った行為で処罰受ける位の仕事がしたかったんです。でもそんな力など無かったし、どうしたらそういう世界に行けるのか、、、途方に暮れてました。

でも不思議と今はそういう世界にいます。明日、責任をとって仕事を失うかも知れない。毎日が苦しいと楽しいのハラハラどきどきの世界にいます。30歳でアメリカに渡ったのはある意味、自分を見直すきっかけになったし、自分は何もできない一人の人間でしかないという結露に至ったのは大きな成果だったです。

それを得るために私は半年という時間を割いたけど、それはそれで私の人生には大きな一歩になったのは確かです。

さて、寝ますか。明日も5時起きです。今0:36。5時に起きて後輩指導が待ってます。書類もてんこ盛り。good night。ワインを飲みながらだったので、相変わらず支離滅裂でしたね。

人気ブログランキングへ